あの人の生活と制作

短編アニメーション『高野交差点』完成しました。次回作構想中。

STUDIO で自分のWEBサイトを作りました。

mizuki110.studio.site

STUDIO というノーコードでWEBサイトが作れるサービスを使いました。

思ったより自由度が高くて使いやすい。たまに痒いところに手が届かない感じはするけど、無料でここまでできるのは驚きです。強制的に表示される左下のバナーもそんなに気にならないし。

絵とかGIFはありものをとりあえず並べただけなのでおいおい整理したい。とか思っていると二、三年放置したりしますよね。

『高野交差点』が Indie-AniFest2021 で上映されます。

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ianifest.org

『高野交差点』が Indie-AniFest という韓国のアニメーション映画祭にノミネートされました。ASIA ROAD という部門で、全アジアから700の応募があり、39作品が選出されたそうです。9月9日〜14日にかけてそれらが上映され、その最後に受賞作品が発表されると理解しております。

世界中にいくつもの映画祭があって、それぞれ違う何人もの人間が審査員をしている。ならばそのうち一人くらいはおれの作品に目を留めてくれてもええんちゃうんけと思っていました。

選出されたおれ以外の日本人作家4名は、山村浩二さんをはじめとして全員が藝大関係者の方々のようです。やっぱり無名のチンピラはおれ一人だけでした。高野の作風も映画祭の文脈からするといささか俗っぽく場違いなのでは、という懸念もなくはない。そこは Indie-AniFest の懐が深いということなのでしょうか。

何にせよ初めての個人作品を選んでいただけるなんて光栄なことです。これを糧に今後もイキリたおしてまいります。

『在野研究ビギナーズ』という本を読んだ。

在野も何もそもそもアカデミズムとは無縁だ。そんなおれでも読み物として楽しめたし、なんならあやうく自己が啓発されかけた。

様々な独立系研究者の活動のあり方を紹介する本。
読む前に見かけたAmazonレビューで、寄稿している在野研究者たちがスーパーマンばかりで参考にならない、というようなものがあった。確かにみんなすごい。限られた時間や予算をやりくりして研究を続ける執念と能力は誰にでも備わっているものではない。
とはいえ彼/女らの生態は十人十色で、アニメーションを個人制作しているチンピラからしても、大いに感情移入できる活動形態の方たちもいる(その方たちはあんまりすごくないという意味ではない)。
 
この本の軸となっている「在野」対「在朝」という構造を、おれは「個人制作」対「商業」として読み替えながら眺めていた。もちろん、学問であれアニメーションであれ、今更このような対立をことさら煽り立てる必要はないかもしれない。特にアニメーションではその垣根が徐々に壊されているように思うが、だからこそその境界が興味深いものとして映る。おれ自身一応両方の経験があるものとして、今後は個人制作の領域からその汽水域をかき乱す表現ができないかと模索してもいる。
この対立構造に対する各執筆者たちの態度も多種多様だ。基本的には誰もが大学や研究機関の意義を認めつつも、学会の閉鎖的なコミュニティに嫌気がさしたという人もいれば、合間のインタビューでは大学教育を全否定する意見もあった。
 
また多くの在野研究者には、ここに「食い扶持を稼ぐための仕事(あるいは生活)」という避けて通れない要素が絡んでくる。研究活動が収入につながればそれに越したことはないが、中々そううまく事が運ばないのが現状だ。ならばせめて専門と関連性のある仕事につく方が良いのか、そうでないなら研究時間を確保するために裁量労働制の職場を探すべきか、はたまた……。
全執筆者の事例を読み終えた上で、また自分の現在の制作と生活のありようを鑑みるに、これはもう偶然に任せるしかない、とおれは結論した。目的や問題意識が見つかりさえすれば、あとは自前のリソースをどう配分するか、いやもっと言うと何をどこまで犠牲にできるか、に尽きると思う。そうなると生活のありようも、そうでしかありえないようなところへ自ずと定まるのではないか。勝手に研究(おれの場合は制作)しようとするような輩は、やはり何を差し置いてでもするだろう。
確かにここについては本を読んだところで何の参考にもならない。ただ、自分にも実現可能そうな活動形態の人を見つければ勇気はもらえる。
 
読み終わってから初めて帯の紹介文を目にし、思わず吹き出した。
最強の学者くずれたちによる現役のノウハウが、ここに集結。
「最強の学者くずれ」いいなあ。おれも「最強のアニメーターくずれ」になろう。

『ドッグヴィル』という映画についての感想文(ネタバレあり)

 学生時代に書いたネタバレ感想文が見つかったのでここにも置いておきます。昨日ふと書いた文章と語り口が変わっていなくて恥ずかしい。

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イッヌヴィル


 ドッグヴィルは観念の町である。
 白線で縁取られ、わずかなセットが組まれた空間を、町であると認識することによってあの舞台が成り立っている。

 実体がない分、言葉・観念の力が強くなる。例えば、ナレーターが美しい町だと言えば、そこは紛れもなく美しい町だ、と受け取らざるをえない。「美しい」という言葉・観念の絶対性が如実に現れる。それはこの舞台があってのものだ。

 一方でグレースの抱く観念の町でもある。
 ギャングの娘として育った彼女は、田舎の素朴な人間・町に自らの倫理的理想を投影する。初期のドッグヴィルはグレースのそういった夢だ。
 吐き気を催す筋書きによって、その観念がどのように変わっていくかが見所となる。

 ドッグヴィルで酷い目にあっても、グレースはへこたれない。
 人間の性質は、その個体の意思にかかわらず、環境によって決定される。ある人間の醜い行いも、そのように育ってしまった環境に問題があるのであって、彼/彼女自身にではない。そして私は彼/彼女らに同情し、赦しを与えるべき存在なのだ。
 そう思うからこそ、断固として父に反発し、脱出に失敗しながらもドッグヴィルでの生活に耐えられた。


 ところがギャングのお迎えが来た途端、彼女の心境に変化の兆しが現れる。引き渡した時の扱われ方からして、どうやら彼女はギャングの要人らしいと感付き始めた住人たち。カーテンで遮られたキャデラックの車中を固唾をのんで見守る。
 そこでは父と娘の信念が真っ向から衝突していた。この作品の核に直接触れている場面が始まる。ギャングのボスであるグレースの父は、「高尚な倫理の実践者」ぶった彼女の考えを否定する。ドッグヴィルの住人たちのような「犬」は、我々が躾けなければならない。父のこの態度をグレースは受け入れられず、話し合いは一旦決裂する。

 車外へ降り立ち、満月の光に照らされたドッグヴィルを眺めるグレース。ここで重大な決断に至る心情の変化が起きる。あれほど拒んでいた父の元へ戻り、権力を手にし住人たちを更生させようと突然思い至る。

 この場面の描写はかなり独特である。本筋からは外れるが、一つ指摘したい。
 描写というのは、その物語の核となる謎(この場合、なぜグレースの心境が突然変化したのか)に対して、「なぜなら……」と外部から理由を持ってくるのではなく、「どのようにして……」というふうに描くことで、直接的な答えにはならなくとも説得力を持たせる、というものである。そうして物語は駆動する。

 一般に映像作品では、「映像を見せる」という映像でしかできないやり方で描写をする。しかしこの場面では、ナレーションがその役割の多くを担っている(このことと舞台のディティールが削ぎ落とされていることは二つで一つだ)。ほとんど言葉で解決させるという、小説でも可能なやり口をあえて映像作品で使っている。
 そのことによって、この物語を取り巻く抽象的な要素が明確になった。単に悪趣味だと忌避されかねない序盤中盤が大いに生きてくる。非常に大胆だが効果的な演出だ。


 閑話休題、父の元へ戻り権力を欲したグレースである。それを受けて父は、暴力による解決を提案する。しかし彼女はその点については一蹴する。あくまで、責任ある行動によって更生させるべきだ、という理想を捨てない。
 と思いきや、その舌の根も乾かぬ内に、トムとの会話でブチ切れ「この町は地上から消えたほうがいいのよ」とのたまい、一瞬にして住人皆殺し・町全焼、という仕打ちに至る。これには笑いを禁じ得ない。それまでの胸糞悪さを消し飛ばす、強烈なカタルシスが得られる。

 だが事はそう単純ではない。グレースは「高尚な倫理の実践者」であることを辞めてしまったのだ。赦しを与えることはできなかった。ただ権力を手に入れただけの「犬」だった。

 跡形なく消え去ったドッグヴィル。そこに唯一残った白線は、正真正銘の犬であるモーゼスだった。白線に本物の犬がオーバーラップし、この映画は幕を閉じる。
 父と娘の会話に何度も登場した比喩としての「犬」=「本能のままに身勝手な人間」を強化している終幕だ。
 これらの展開は、世の中には強い犬と弱い犬がいるだけだ、という身も蓋もない結論を突きつけてくる。あるいは、倫理の問題はその点を前提にして考え始めるべきだ、と捉えるべきか。

 いずれにしろ、ドッグヴィルが消滅して清々した、と感じたお前もやはり「犬」なのだ、と言われた感じがしてなんだか悔しい。

アリとセミと良寛

 良寛は反逆者だ。

 もちろん、「清貧を貫いた好々爺」という人物像もそれはそれで正しいのだろう。しかしあの生涯を貫き通したということは、ある意味で世の流れに逆らい続けたということでもある。良寛自身にその自覚があったかどうかはともかく、世間と徹底抗戦するという態度によってこそ世間から寛容を勝ち得た、という人生だったのではないか。

 あるいはキリギリスと言い換えてもいい。イソップ寓話の『アリとキリギリス』の結末において、冬を迎えたキリギリスはアリから食糧を分けてもらうことを許される。しかしそれは、ただただアリの寛容さにすがったからではない。夏の間中休むことなく鳴らしていたヴァイオリンと歌が、アリを感動させたからである。良寛もまた、キリギリスとして世間に抗い続けたからこそ、アリに愛される人となりえたのだと思う。

 と、ここまでならちょっといい話なのだが、現実はそう甘くない。

 実は日本でよく知られたこの寓話は近代以降の改変版で、翻案の過程でキリギリスとされたものの、原作でのそれはセミだそうだ。そして、そのセミはアリに見捨てられて死ぬのである。

 この事実は、世間に抗う人生に対して何やら示唆を与えてくれている気がするが、悲しくなるのでこれ以上考えないことにする。おれも真にキリギリスたりえた良寛の凄味にあやかりたく、居間のソファで雙脚を等間に伸ばしてみる。

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気が向いたので、5年くらい前に参加した作品を今さら紹介する。


www.youtube.com

ストップモーションアニメ制作チーム「SOVAT THEATER」による短編作品。このウリボーのキャラクターを題材にコマ撮りアニメ体験ワークショップも行われた。

SOVAT THEATER.com :: TOP

おれはOPとEDのロゴアニメーションを担当した。Adobe FlashとBlackmagic Fusionを使って作った覚えがあるが、どちらも今は名前が変わっている。おれももう使っておらず、諸行無常を実感する。

ウリ坊だがイエネコ的なかわいさがある。短いのでぜひ一度見てほしい。ドアに一回跳ね返ってから中に入っていくところが特にかわいい。