良寛は反逆者だ。
もちろん、「清貧を貫いた好々爺」という人物像もそれはそれで正しいのだろう。しかしあの生涯を貫き通したということは、ある意味で世の流れに逆らい続けたということでもある。良寛自身にその自覚があったかどうかはともかく、世間と徹底抗戦するという態度によってこそ世間から寛容を勝ち得た、という人生だったのではないか。
あるいはキリギリスと言い換えてもいい。イソップ寓話の『アリとキリギリス』の結末において、冬を迎えたキリギリスはアリから食糧を分けてもらうことを許される。しかしそれは、ただただアリの寛容さにすがったからではない。夏の間中休むことなく鳴らしていたヴァイオリンと歌が、アリを感動させたからである。良寛もまた、キリギリスとして世間に抗い続けたからこそ、アリに愛される人となりえたのだと思う。
と、ここまでならちょっといい話なのだが、現実はそう甘くない。
実は日本でよく知られたこの寓話は近代以降の改変版で、翻案の過程でキリギリスとされたものの、原作でのそれはセミだそうだ。そして、そのセミはアリに見捨てられて死ぬのである。
この事実は、世間に抗う人生に対して何やら示唆を与えてくれている気がするが、悲しくなるのでこれ以上考えないことにする。おれも真にキリギリスたりえた良寛の凄味にあやかりたく、居間のソファで雙脚を等間に伸ばしてみる。