あの人の生活と制作

短編アニメーション『高野交差点』完成しました。次回作構想中。

深夜のメモ:「作り"たい"」と「作る"べき"」

自分が「何を作り"たい"か」を考えると、趣味趣向や憧れに基づいたものが出てくる。 一方、「何を作る"べき"か」は難しかった。 おれはそもそもこの両者の違いを悟るまでに数年費やした。 ここらで自分なりの感想をまとめておこうと思う。

世の中いろいろな作風の表現物がある。 もしあなたが魅力を感じる作品群が一貫して似たような作風なら、自分が何を作るかという問題にも大して悩まされることはないかもしれない。

しかしおれの場合は違った(というかみんな違うよね?)。一見全く相容れない作品たちでも、それぞれ同じくらい強く心を動かされることが多々あった。 暴力的な作品でも面白いものはあるし、一般にオタク向けと言われる作品にこそ共感できることもある。マイナーで小難しい作品にも憧れるし、老若男女に愛されるメジャー作品は当然楽しめた。

素晴らしい作品の内部にはどれもおもしろさを保証する論理があり、おれには各々に一定の正しさがあるように思えた。

じゃあそんな中からおれは一体どれを選び、それみたいな作品を作ればいいのか? そんなことを散々悩みながら制作し、いくつかは一応形になったが、当然いつも揺らいでいた。 例えばWEBですごいイラストを見かけたり、若手アニメーターの凄技に嫉妬したりするたび、自分もそれみたいな絵を描かなければいけない気がしてくる。

結局、自分の中に価値基準が育っていなかったのだ。 だから他人さまの多種多様な作品が擁する価値基準それぞれに見事あてられてあちこちひきずられてしまう。 そもそも他人の作品を基準に自分が作るものの方向性を「選ぶ」というのが的外れだった。 こういう態度で取り組むと、いかに「うまくやるか」という技術競争のゲームにしかならない。 どうしたってそれはその「選んだ」作風の価値基準の上で再生産するだけなのだから。

ではどうすればいいのか。 やっぱり自分の経験から出発するしかない。 自分が直接経験したものを作品の根拠に据えることではじめて、「何を作る"べき"か」が導けると思う。 ただし、壮大なメッセージやテーマを大上段に構えるのは駄目だ。 言語によるはっきりした主張・回答があるのに、それを言論で突き詰めないのはちょっと卑怯にすら感じる。

遅ればせながらこの辺りの整理ができてからは、何を見ても軽薄に影響されることは少なくなった。それがどんなに素晴らしかろうが、自分の作品からは一定の距離を保って考えられる。

憧れに引き回されて「作り"たい"」ものを作っていたら全くきりがない。今の世の中凄い作品はたくさんあるし、好きな作品だって尽きないからね。 でも実際「作る"べき"」ものは自分の生活の中にしかない。