あの人の生活と制作

短編アニメーション『高野交差点』完成しました。次回作構想中。

あからさまに寓話的な物語は今後も作らないかなと、夜中にぐるぐる思った。

現実に対する作家個人の問題意識とその作品との距離感はどうあるべきか?ということを時々考える。

管見の限りでは、短編アニメーション作品でこの距離の近いものが多い(気がする)。
言い換えると寓話的な傾向の物語だ。
そしてそれらは往々にして、現実感に乏しいどこか象徴的な世界で、明らかに何かの隠喩であるらしい出来事が起こる。
また登場人物たちは、その問題に対して考え得るいくつかの意見を、それぞれ具現化させたかのようにふるまう。
結末では、その作家の結論を出すなり、観客に問いかけるなりして幕を閉じる。

この種の作品の背後には、明らかに言語による主張が見え隠れしている。
であるならば、本来その問題はなによりも言語によって論理的に突き詰めて主張すべきなんじゃないの?
その辺のアニメーション作家の思考なんて、間違いなく過去の哲学や倫理学などに検討され尽くしている。そこに真っ向から取り組む意気込みも能力もなしに、問題の一端をかじるだけかじって作品に仕立て上げることは、おれにはとても不誠実に思える。

ここまでつらつら書いておいてなんだが、具体性のある複雑な物語であり、かつ作家の問題意識がうまく反映された作品もある。

だからここはやはり、距離感が肝なのだろう。近づきすぎると説教くさい寓話になり、遠すぎるとクセがないエンタメになる。
あるいは単に巧拙の問題かもしれない(これを言ったらおしまいだが……)。

なんかすごく偉そうな文章になってしまった気がするけど、これはあくまで自分に対して言い聞かせているものなので悪しからず。