あの人の生活と制作

短編アニメーション制作中。

『高野交差点』制作状況二月

清書は90%、彩色は69%完了。
大変なカットを後回しにしてきたツケを今払っている。作業時間はほぼ変わらないにもかかわらず、なかなか描き終わらない。 この作品の制作中でも絵が上手くなっていくだろうと見越して、難しいカットはわずかでも達者な未来の自分に任せたのだ。
上達したかどうかはともかく、慣れというのは確実にある。なんだかんだやはりこの作戦が妥当だったと思う。

GIFアニメーション

高野交差点から井戸端会議の1カット。やっぱりコンポジット時にもう少し色を調整して空気感を演出したい。

『高野交差点』制作状況

『高野交差点』相も変わらず鋭意制作中。
清書が85%、彩色が50%ほど完了した。
作画に関してはあと一息といったところ。
早くAEでコンポジットしたくてウズウズしてきた。

普段はAEを触る機会が全くなく、作品制作がこの段階に至るたびに使いながら勉強している。
前回本格的に作業したのはもう数年前になるので、細かい操作は忘れているだろう。
とはいえ、必要なことは毎回全部メモしてきているので、なにも問題はない。
こまめに蓄積しておいた数年来の自分に感謝だ。
いつまでAEを使い続けるかわからないが、今回も一応メモを怠らず作業していく。

正直なところ環境さえ整えば次回はDavinciResolveに移行するかもしれない。

副次的動作について

「12 Principals of animation(アニメーション基本12原則)」というものがある。 おれはアニメーションを体系的に学んだことはないが、それでも聞いたことくらいはある。

そしてその中の一つ、「Secondary Action(副次的動作)」というものについて。
他の項目は名前を聞いたら大体何を指しているかピンときたが、これはよく分からなかった。 おそらく、主な対象に追随するものの動き(例えばキャラクターに対する髪の毛や服)のことかと勝手に類推していた。

しかし今日ネットで見かけた文章によると、どうやらそれはよくある勘違いらしい。 副次的動作に該当すると今までおれが思っていたのは「残し(drag)」や「オーバーラップ」にすぎなかった。

では実際のSecondary Action はと言うと、主となる演技に付随してそれをより多面的にしたり強調したりする細かい仕草のこと、とでも表現すべきものらしい。 つまり、この「副次」というのは演技プランにおける意味合いというわけだ。

言われてみれば何ら特別なことではないが、これを一つの言葉で認識しているか否かは大きな違いだと思う。 やっぱり勉強はしとかなあかんかったね。

「つぶやく」よりも「うめく」くらいがちょうどいい

つぶやき感覚で思っていることを垂れ流すと、公的な空間ではいろいろ支障が出る。毎日どこかの誰かが「失言」して祭りが起きている。
ある分野で非常に信頼されており、かつ影響力もある専門家が、専門外のことに対して気軽に「つぶやいて」しまい、手厳しくツッコまれるというような事態も何度か見かけた気がする。

おれはつぶやくやつはもうやっていない。 口下手だから140字やらの細切れな短文で言えることが特にない。

一方で「つぶやき」に憧れもする。 垂れ流すからこそ其奴の人となりが覗けるのだ。
あそこにはいつも信じられないくらい多くの人たちがいて、皆がにこやかに挨拶したり殴りあったりしていてとてもまぶしい。

おれはここで「うめく」のがせいぜいだ。 もし見知らぬ人に見つかっても、「あの人なんか言うてる?なに言うてるんやろ?」くらいの様子。
つまり、だらだらと取り留めもなく、抽象度を上げて書く。
具体名を挙げてなにか言いたくなったら、身近な友達にでも「つぶやく」ことにする。

深夜のメモ:「作り"たい"」と「作る"べき"」

自分が「何を作り"たい"か」を考えると、趣味趣向や憧れに基づいたものが出てくる。 一方、「何を作る"べき"か」は難しかった。 おれはそもそもこの両者の違いを悟るまでに数年費やした。 ここらで自分なりの感想をまとめておこうと思う。

世の中いろいろな作風の表現物がある。 もしあなたが魅力を感じる作品群が一貫して似たような作風なら、自分が何を作るかという問題にも大して悩まされることはないかもしれない。

しかしおれの場合は違った(というかみんな違うよね?)。一見全く相容れない作品たちでも、それぞれ同じくらい強く心を動かされることが多々あった。 暴力的な作品でも面白いものはあるし、一般にオタク向けと言われる作品にこそ共感できることもある。マイナーで小難しい作品にも憧れるし、老若男女に愛されるメジャー作品は当然楽しめた。

素晴らしい作品の内部にはどれもおもしろさを保証する論理があり、おれには各々に一定の正しさがあるように思えた。

じゃあそんな中からおれは一体どれを選び、それみたいな作品を作ればいいのか? そんなことを散々悩みながら制作し、いくつかは一応形になったが、当然いつも揺らいでいた。 例えばWEBですごいイラストを見かけたり、若手アニメーターの凄技に嫉妬したりするたび、自分もそれみたいな絵を描かなければいけない気がしてくる。

結局、自分の中に価値基準が育っていなかったのだ。 だから他人さまの多種多様な作品が擁する価値基準それぞれに見事あてられてあちこちひきずられてしまう。 そもそも他人の作品を基準に自分が作るものの方向性を「選ぶ」というのが的外れだった。 こういう態度で取り組むと、いかに「うまくやるか」という技術競争のゲームにしかならない。 どうしたってそれはその「選んだ」作風の価値基準の上で再生産するだけなのだから。

ではどうすればいいのか。 やっぱり自分の経験から出発するしかない。 自分が直接経験したものを作品の根拠に据えることではじめて、「何を作る"べき"か」が導けると思う。 ただし、壮大なメッセージやテーマを大上段に構えるのは駄目だ。 言語によるはっきりした主張・回答があるのに、それを言論で突き詰めないのはちょっと卑怯にすら感じる。

遅ればせながらこの辺りの整理ができてからは、何を見ても軽薄に影響されることは少なくなった。それがどんなに素晴らしかろうが、自分の作品からは一定の距離を保って考えられる。

憧れに引き回されて「作り"たい"」ものを作っていたら全くきりがない。今の世の中凄い作品はたくさんあるし、好きな作品だって尽きないからね。 でも実際「作る"べき"」ものは自分の生活の中にしかない。